君の左の薬指まで④

深川との電話のあと、我に返って手元のメモを見た。
野球(ベイスターズ)、テンション高い→距離縮まる、勝ったら渡したいもの、指輪(プロポーズ)、賭け、負けても自分でなんとかする
羅列された、汚い字の走り書きを辿る。その誠実さのほどはともかく、深川は僕に、有益なアドバイスをくれたのだろう。あとは、それをどう自分が活かすか、なのだろうか…。
もう酔いはすっかり醒めていた。ビールの空き缶とグラスを流し台に持っていこうとしたときに、再び電話が鳴った。携帯電話のディスプレイに表示されたのは、瞳の名前だった。
「ヨボセオ?」。僕は韓国語で応えた。瞳は韓国語を専攻していたので、2人の間での電話の第一声は「ヨボセオ?」と決まっている。
「ヨボセオー」
「あれ? 声、変だぞ」。いつもよりしわがれた瞳の声に僕は気付いた。
「うん、ちょっと風邪引いて、熱もあったから休んじゃったの」と瞳は少し億劫そうに答えた。
「大丈夫か? 食事はしたか? 熱は何度ある?」。気遣って僕は訊いた。
「食事はなんとか食べたよ、ヨーグルトとか。熱はねぇ…パンムンジョム」
「パンムンジョム…。板門店?」
「うん、38度線付近を行ったり来たり、って感じ」
僕は少しだけ呆れて、電話を持ったままソファに寝そべった
「それだけギャグを言えるんなら大丈夫そうだな。心配して損したよ」
「わたしが言い出したんじゃないよ、大学のときにクラスで流行ってたの」
確かに言い得て妙だ。さすが韓国語専攻卒、というべきなのか。
そのとき、テーブルの上に置かれたメモに目が移った。そうだ、そうだった。
「あのさぁ、瞳。今度、野球観に行かないか? ベイスターズの」
瞳に気付かれるかどうかというほど微かにだが、僕の声は震えていた。
「え、ベイ? わー、行く行く。珍しいね、茶太が野球行こうなんて。まるで興味ないくせに」
「うん、ちょっと」。何の気なしに訊いているはずの瞳の一言一言が、僕の真意を見抜くように感じられて、脇の下に汗が滲む。
「じゃあ、チケットは取っておくからな。試合が終わったら食事でもしよう。また、詳しい時間を決めたらメールする」
「うん、ありがとう。じゃあ、それまでに風邪、治しておかないと」
板門店から、大邱ぐらいまでには下げておかないとな」
「テグ?」。瞳が首を傾げた。
「あのへんがだいたい36度くらいだったと思う、緯度でいうと」。地理は昔から得意なのだ。
「ふうん、そうなんだ。じゃあ今度から平熱のことを『テグ』って言おうかな」
「また余計な知恵をつけちゃったな…」。僕は小声で呟いた。
「何か言った?」
「いや、何でもない。じゃあ、また諸々が決まったら連絡するよ。まだ熱があるんだから、もう寝たほうがいいぞ。早く治せよ」
「うん、ありがとう。茶太、おやすみ」
「うん、おやすみ。お大事に」
電話を切ったあと、どっと疲れが出た。心臓が、内側から僕の胸を乱暴に叩き続けていた。空き缶を流し台に放り投げ、冷蔵庫から烏龍茶を取り出してグラスに注ぎ、立て続けに二杯飲んだ。そして、大きな深呼吸を一つした。



それからの2週間で、僕はいろいろと、やり慣れないことをしなければならなかった。野球のチケットを買い、ベイスターズの選手の名前と顔と背番号とポジションを一致させ、インターコンチネンタルホテルのフレンチレストランを予約し、宝石店で指輪を購入した。
6月23日。横浜−巨人2連戦の2戦目。そして、僕にとっては初戦であり、最終戦になるだろう試合だ。
試合を明日に控えた夜、僕はレッカと深川に電話した。
「いよいよか。俺もカミさんにしたときを思い出すよ。俺は前日、なかなか眠れなかったけど、ちゃんと寝た方がいいぞ。試合中に居眠りしたら台無しだからな」。レッカはやさしく先輩風を吹かせた。
「うん、ありがとう」
「なぁ、茶太。いま、外見られるか?」。僕は小さな窓から、狭い夜空を見上げた。
「月は、出てるか? 出てるとしたら、半月か?」
「うん、きれいな半月が出てるよ」。そう答えると、レッカは少し安心したように言った。
「そうか、実は俺がカミさんにプロポーズした日の前日も、半月が出てたんだよ。よかったな。ゲンがいいぞ。きっとお前、明日、成功するよ」
「うん、ありがとうレッカ。俺、頑張ってくるよ」。レッカは切り際に僕にこう言った。
「でっかい役満、上がってこいよ」
深川には、教えられたとおり野球に誘ったことを告げた。
「そうか、じゃあ運試しと肝試しに挑むんだな」
「ああ。深川、本当にありがとう。お前に教えられなければ、どうやって前に進めばいいのかもわからなかった」
「俺は何も大したことを教えてないよ。あとは、お前が自分で勝ち取ってくるんだから、OKの返事をな」
「うん。じゃあ行ってくる。いい報せをお前にもできるように、頑張ってくるよ」
「大丈夫、たけしの挑戦状より簡単だから」
「わかったよ」。僕は笑った。そして電話を切った。
レッカにひとつ、聴きそびれたことがあった。レッカのプロポーズの前日に出ていた月は、上弦だったのだろうか、下弦だったのだろうか。いま、夜空に浮かんでいる月は、これから消え行こうとしているきれいな下弦の月だった。
そして、深川に言いそびれたことがある。たけしの挑戦状にあって、プロポーズには絶対にないものがあるということを。
それはコンティニューだ。
明日の夜、下弦の月の真下、僕はコンティニューのない、一発勝負のマウンドに登る。(つづく)



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