28歳の夏休み④

目を覚ました僕は、着替えを済ませるとインターネットに接続し、天気予報を確認した。
島根の週間予報は今日からしばらくは晴れているようだったが、火曜日から水曜日にかけて雨が降るかもしれない、というものだった。自分が島根の天気予報を気にかけることがあるなんて、思ってもみなかった。東京から遠く離れた―もちろんキエフほど遠いわけではないが―場所に島根という土地があり、そこに人が住み暮らしていることを実感することがうまくできなかった。僕はこれから、そんな街へ向かう。
迷った末、傘を持たずに家を出た。羽田空港までは、40分だ。
早朝の、人がまばらな駅に着くと、改札口の手前にある売店で煙草と缶コーヒーと新聞を買った。金を支払い、釣り銭を受け取って切符を買おうとしたとき、僕の目の中に飛び込んできた文字があった。駅事務室の横にかかっていた「紛失定期券届」の掲示板に書かれた文字に、一瞬だけ目を奪われ、僕は動きを止めた。まさか、と思った。
掲示板に書かれた文字と、それが結びつける意味。それを理解したとき、懐かしさと、焼け付くような気持ちのざわめきがほんの一瞬だけ湧き上がり、そして一瞬のうちに消えた。
なぜならその人はもう東京にはいないからだ。いや、僕が知っているその名前の人は、もうどこにもいない。そのことを僕は思い出したのだ。



「『オナカシマ マイ』さん、と読むんですよね?」。僕は殺風景な会議室で彼女に尋ねた。
「そう。変わった名字でしょ」。ブラインドの隙間からまばらに見える、道路の向こうの公園の桜に目をやりながら答えた。
入社して3年目の4月。僕は彼女と、その殺風景な桜の見える会議室の机で向かい合って座っていた。彼女は名古屋から、4月1日付で東京の本社に異動になり、そして本社の人事給与部門担当者だった僕は、彼女に給与振込や社会保険の手続の説明をしていた。
「東京、懐かしいんじゃないですか?」。事前に名古屋の事業所から送られてきていた彼女の履歴書によれば、彼女は東京の大学を卒業してすぐに名古屋に配属になり、入社8年目で東京に戻ってきたのだ。
「うん。まだこっちにも学生の頃の友達、結構いるしね」
「オナカシマって名字の人にお目にかかったのは初めてです」
「わたしもこっちや名古屋では見たことないな。でもね、出雲には割と多い名字なんだよ」
彼女は、高校まではずっと出雲にいた。
「出雲は行ったことないです。出雲大社出雲そばと、宍道湖…は松江か」
たたら製鉄、って言ってもわかんないよね」。彼女は僕が渡した書類を揃えて封筒の中にしまいながらそう言って笑った。
「何もない、つまらないところだったわよ。もし行く機会があるんなら、案内してあげるから」。
それが、僕と彼女の出会いだった。まだ、それは僕の中に手触りのある記憶として残っている。その4月とその桜は、まだ僕に残されている。
僕はいつも思う。誰か人と出会えたとき、その人との別れの場面までもを見通すことができるのであるならば、と。
多分、人が人生で感じる痛みと苦しみは半分で済むだろう。人生から失われる魅力と輝きまで半分で済むかどうかはわからないが。



空港へは少し早く着いてしまった。チェックインまでにはまだ余裕があったので、喫茶店に入りコーヒーとサンドイッチを食べていると、浅井から電話があった。
「よう、昨日はお楽しみだったのか? 今ごろ2人でモーニングコーヒーでも飲んでるんじゃないのか?」。僕は店内を見回した。店内にはつまらなそうな顔をしたスーツ姿の初老の男がコーヒーを飲んでいる。「うん、確かにいま2人でコーヒーは飲んでるけど」。
「なぁ、電話、俺に代わってくれよ」。馬鹿な。何を考えているんだ。「それは無理だと思うよ、多分」。「何だよ、自分だけいい思いしやがって。隣りにスッピンの彼女がいるんだろ、羨ましいな」。「スッピンどころか髭まで生えてるけど、本当に代わってほしいのか?」。
電話は切れた。僕はコーヒーの残りを飲み干すと、席を立った。


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