28歳の夏休み⑤

僕は28歳で、そのときMD−87のシートに座っていた。ただの事実である。
宍道湖の中に降り立つように、飛行機は出雲空港に着陸した。宍道湖を見るのはもちろん初めてだったし、出雲空港がこんなに宍道湖に隣接していることも初めて知った。わずか1時間半ほどのフライトだったので、寝る暇もなかった。ある程度予想していたことではあったが、出雲空港は小さな空港だった。昔に訪れた、クレタ島ニコス・カザンザキス空港を思い出す。もっとも、ニコス・カザンザキス空港には出雲そばの店はなかったが。
空港の1階に備え付けられた自動販売機で、市街までの連絡バスのチケットを買う。空港からは飛行機の到着から10分後にバスが出るダイヤになっている。羽田を出て午前中に出雲に着くのは僕が乗ってきた便しかなく利用客が多かったため、バスの空席は少なかった。年配の夫婦や女子大生と思しきグループ、外国人などがバスに乗る。出雲大社や松江などを見に来たのだろう。あるいは仕事で、という人もいるかもしれない。それぞれが目的を持って空港に降り立ち、このバスに乗ろうとしている。ただ、僕と同じ目的でここに来た人は一人もいないだろう。
僕は運転手の真後ろの席に座ると、荷物を膝の上において抱え、窓の外を眺めた。宍道湖が望めた。きっと彼女も、この景色を何度となく見たのだろう。彼女が初めて東京に出てくるためにこの空港に来て宍道湖を目にしたとき、僕はどこで何をしていたのだろう。多分、リビドーがジャージを着て歩いているような時期だったはずだ。それが僕と彼女の間に隔たっている時間なのである。
30分ほどでバスが出雲市に着くと、僕はまず本屋を探した。市内を流れる高瀬川沿いにあるショッピングモールの中に本屋があったので、そこで市内の地図とポケット時刻表を買った。ここから、僕の出雲での第一歩が始まる。
駅前のホテルに部屋を取り、手荷物以外を預けてしまうと僕はロビーで、家から持ってきたメモ用紙を広げた。そこには、ここで訪れるべき場所とその所在地の地番が書かれていた。僕はまず、最初に行く場所を地図で探すと、出雲市駅へと向かった。神西沖町、という場所に行くためだ。



オナカシマさんと初めて2人だけで食事に出かけたのは、彼女が東京にやってきて2ヶ月ほどした、6月の半ば頃のことだった。朝から雨が降っていたその日、僕が会社の昼休みに食事に出ようとしたときに、会議室から出てきた彼女に呼び止められた。
「一斗くん、お昼食べた?」
「いや、まだですけど」
「本当? よかった。じゃあこれ、食べて」。彼女は僕に、トレーに乗った定食を手渡した。会社の食堂は、食べ終わったあと自分で戻しに来るのであれば、食堂の外に食器を持ち出して食べてもよいことになっていた。仲のいい女性社員同士などが、空いている会議室で仕事のグチや社内の噂話をしながらよく食べていたようだった。
「どうしたんですか、これ?」
「たった今、急ぎの外出の用事が入っちゃったの。これからすぐ出なきゃいけなくてお昼食べてる時間なさそうなんだけど、用事が入る前に、知らずに食堂で注文しちゃったから、よかったら食べて」
「わかりました。じゃあ、ありがたくいただきます。でも、大変ですね。急に外出なんて。いくらですか?」。僕は財布から小銭を取り出そうとしたが、オナカシマさんはそれを制した。
「いいわよ、お金なんて。私、そろそろ出かけないといけないから。あ、食器だけは自分でさげておいてね。ごめん。じゃあね」。そういうと、彼女は自分のフロアに戻っていってしまった。残された僕は、酢豚とご飯と味噌汁とサラダをトレーに乗せたまま、会議室の前で棒立ちになっていた。
オナカシマさんからもらった食事を平らげて食器をさげると、僕は外に出た。近くのコンビニエンスストアでサンドイッチとおにぎりを一つずつ買い、彼女のデスクにメモをつけて置いておいた。
「外出、お疲れ様でした。お昼は済みましたか? もしまだなら、よかったら食べてください。苦手なものが入っていなければいいんですけど」。窓の外の雨は、もう少しでやみそうだった。


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