28歳の夏休み⑥

午後から始まった会議は予想以上に長引き、夕方まで終わらなかった。これから書き起こさなければならない議事録のことを考えて気を重くしながら会議室を出て自分のデスクに戻ると、外出から帰ったオナカシマさんからメールが届いていた。
「どんなお昼ご飯よりもおいしかった! どうもありがとう。かえって気を遣わせちゃって悪かったので、今度食事でもご馳走します。都合がいい日を教えてね」
どうやら僕が置いておいた食事を食べてくれたようだ。いつもの僕だったら、こういった類のお誘いは遠慮するのだが、なぜか今回は素直にその誘いに乗ろう、という気になっていた。今年に入ってからやたらと浅井が言っていた、僕にやってくるという「かなり大きい『モテサイクル』」のことが頭にあったのかもしれない。
「しあさっての金曜日、15日なら空いています」
そのような経緯で僕は、25回目の誕生日の夜にオナカシマさんと2人で、沖縄料理を食べ、泡盛を空けることになった。「ご馳走する」という約束は守ってもらったが、沖縄料理を食べに行ったのは彼女のリクエストだった。
話してみて分かったことだが、彼女と僕にはいくつかの共通点があった。無類の酒好きだがワインは苦手だということ、スピッツでは『チェリー』がいちばん好きなこと、学生時代に書店でアルバイトしていたこと、辛いものに目がないこと、煙草を昔吸っていたがいつの間にか止めてしまったこと、友達が少ないこと。
彼女と僕にはいくつかの相違点もあった。僕は二人兄弟の長男だったが彼女はひとりっこであり、僕は黒が好きだったが彼女は白が好きであり、僕は香取慎吾が嫌いだったが彼女は木村拓哉が嫌いであり、僕は紅茶が飲めなかったが彼女はコーヒーを口にしなかった。
その共通点と相違点を、ジグソーパズルのピースのように一つ一つ見つけながら、僕と彼女は親密になっていった。何度か食事に行き、何度か飲みに行き、何度か映画を見て、何度かプレゼントをし合った。
共通点と相違点のモザイクが描くジグソーパズルの絵柄が少しずつ出来上がっていくにつれ、僕の彼女への呼び名は「オナカシマさん」から「マイ」へと変わっていった。彼女の僕への呼び名は「一斗くん」から「茶太」になった。しかし、そのパズルは最後のピースが正しいところに完璧に嵌め込まれるまで、何が描かれているのはわからなかった。
僕は彼女と2人で、その絵を完成させようと思った。
彼女がどう思っていたのかはわからない。ただ、去年27歳の夏休みを終えて僕がロシアから帰国したとき、彼女は消えていた。



JRの出雲市駅から山陰本線に乗り換えて、出雲神西まで行く。2駅先だが、次の電車まで30分以上あったので、売店で缶コーヒーを買い、電車が来るのを待った。
待っている間、僕はポケットから携帯電話を取り出した。1年間、誰からのメールも届かず、誰にもメールを送っていない携帯電話だ。
去年、モスクワ行きの飛行機に搭乗する前に、成田空港の出発ロビーから僕は彼女にメールを送った。ここ最近、ひっきりなしに届く迷惑メールに悩まされていたためアドレスを変えた僕は、「間もなく出国します。2週間後に帰ります。お土産、買ってくるから待っててね」という文面のメールとともに、アドレス変更を告げた。それが、僕が彼女に送った最後のメールになった。
僕が旅行から帰国して出社したとき、彼女は会社を辞め、東京を引き払っていた。それ以来、僕は誰にも携帯のメールアドレスを教えていない。このアドレスは彼女しか知らない。僕は、いつ来るともしれない彼女からの着信を待ち続けるために、アドレスを2人だけの秘密にしたのだ。
ホームのベンチで、僕は1年ぶりに彼女に宛てるメールを打った。
「久しぶりです。元気ですか? いま、出雲に来ています。駅前の〇〇ホテルに部屋を取って、火曜日までこちらにいます。
マイは今、どこにいるのですか?」
一瞬だけ迷って、僕は送信ボタンを押した。ディスプレイはまばたくように光りながら、メールを彼女のもとへと送り届けた。間もなく電車がやってくる。


次回に続く。人気blogランキング