桜木返し

私は高校生の頃、東急東横線を使って通学していた。首都圏以外の読者様にご説明すると、東京の渋谷駅と神奈川の横浜駅を結ぶ、首都圏の主要な私鉄路線の一つである。私が利用していたのは横浜駅から上りの電車に乗り、路線のほぼ真ん中に位置する某駅(急行は停車する)までの間だったのだが、当時は東横線の下りの終点は横浜駅ではなく、そこから2駅行った桜木町だった*1。横浜と桜木町の間にある高島町はとても小さくしょぼい駅で急行は止まらず、桜木町は終点だから当然急行が止まるわけだ。
さて、当時からものぐさで怠惰な私としては、朝の通学電車でわざわざ立って行くなんて思いもよらない。違う意味で立って行ったことはあるが*2、基本的には着席、そして熟睡を旨としていた。しかし、朝のラッシュの時間ではそうおいそれと座ることはできない。まして、横浜から急行に乗って座るというのは至難の業だ。各駅停車だったら場合によっては横浜からでも座れなくもないが、それでも博打である。ではどうすればよいか。
カンのよい方はお気づきだろうが、私は横浜から下り電車に乗ってわざわざ戻り、空いている電車に乗って悠々と座る、という小技を使っていたのである。当初は高島町で降りていたのだが、意外と高島町からでは思うように座れず、また高島町には急行が止まらないことから終点の桜木町まで戻ることにした。この場合、乗ってきた電車がそのまま折り返しで戻るわけである。これを私は「桜木返し」と呼んでいた。
しかし、みんな考えることは一緒なのか、この手を使う人はけっこういたようだ。というのも、桜木町から急行で折り返す電車の場合、終点近くになると「折り返しのお客様は、桜木町でいったんホームに降りてからご乗車下さい」という内容のアナウンスが流れるのだ(各駅停車の場合は流れない)。そりゃそうである。始発の桜木町には、ちゃんと並んで電車を待っている人がいるのだ。何食わぬ顔で急行電車に横浜方面から乗ってきて、そのまま折り返しでふんぞり返って座ってる奴がいたら暴動が起きかねない。というわけで私は、「横浜からいったん下り電車に乗って桜木町まで行き、その電車が急行で折り返す場合は桜木町で降りて次発の各駅停車に乗る、各駅停車で折り返す場合はそのまま乗って戻る」という、実にめんどくさい方法を取っていたのだ。どちらにしろ完全・確実に座るために、たいていの場合、毎日各駅停車に乗った。であるからして、桜木町まで戻る時間や各駅停車でロスする時間差を見越し、多少家を早く出ていたほどである。「そうまでしてお前は座りたかったのか?」と言われれば「そうだよ、文句あるかバカ」としか答えようがないが、まぁそんな高校生活だったわけである。
さて、最近また、朝、仕事に行くとき東横線を使うようになった。みなとみらい線とつながり、特急や通勤特急が増えた結果、いまでは各駅停車ならほぼ横浜から座れる。しかし今朝は少し時間に余裕があったので、懐かしくなってちょっと戻ってみることにした。2駅戻って、かつての桜木町に当たるみなとみらいまで。
降りたホームは、がらんとしていた。人はもちろんいるのだが、私が降りたのはかつての桜木町のような明るい屋外のホームではなく、地下深くの、薄暗くて清潔で無機質な、つまらないそれだった。もちろん、みなとみらいで降りたのは初めてではないし、地下ホームだということもわかりきってはいたのだが、かつての「桜木返し」を思い浮かべながら戻った私には、そのギャップが余計に大きく感じられたのだ。
そして、思い出した。私が毎日わざわざ桜木町まで戻っていたのは、単に座りたかったからだけでなく、あのホームからの景色を見たかったからだということを。コスモクロックや、当時できたばかりのランドマークタワーがよく晴れた青い空に映えているのを見るのが好きだった。ホームで電車を待ちながら、海から吹いてくる風に吹かれるのが好きだった。朝のちょっとした時間ではあったけれど、そんな風景を私はとても気に入っていたのだ。
ほうっておいたら失われてしまうものがあるし、ほうっておいたら会えなくなってしまう人がいる。そんな当たり前のことほど、なかなか気づくことができない。現に私は気づけなかったのだ。なんとなく寂しく感じながら、私はみなとみらいから各駅停車に乗って渋谷を目指した。




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