君の左の薬指まで⑤

僕が今日、瞳にプロポーズすることを知っているのは、僕とレッカと深川しかいない。
そして、だからといってそれ以外の特別親しくない人に、今日、僕がプロポーズすることを教える必要もない。
だからだ。そうだとしか考えられない。
今日、仕事を終えた後一刻も早く、横浜スタジアムに駆けつけなければならない僕の事情を知らない職場の人間は、実にどうでもよい議題で夕方、臨時の職員会議を開いた。「カレーの付け合せには福神漬けがいいのか、らっきょうがいいのか」というのと大差ないレベルの議題は、あろうことかベテランの古文教師と、僕の4年先輩の体育教師の間で紛糾した。僕は教員になって6年目になるが、6年目にして初めて、同僚である教員に対して殺意を抱くほど苛立った。スーツの内ポケットに入れた携帯電話には、6時半を過ぎた頃から何度となく着信が入り、その度に僕の左胸のあたりで、電話は急かすようなバイブレーションで震えた。会議中なので電話もメールもできず、僕は気が気でなかった。
福神漬けもらっきょうも、どっちも悪くないね」という結論の出た会議が終了したのは、結局7時を回ろうかという時間だった。僕はすぐさま瞳に電話をした。
「ごめん、急に会議が入って、いま終わったんだ。どこにいる?」
瞳は怒ったような声で答えた。
「いま終わった、ってまだ学校ってこと? わたし、もう帰ろうと思って関内まで来ちゃったよ。チケット持ってるの茶太なんだから、わたし球場にも入れないし、電話にも出なければメールも返してくれないんだもの」。瞳の怒りはもっともだ。
「本当にごめん、これからすぐ行く。8時前には着くと思うから、もう少しだけ待っててくれ」
「わかった。もう、何でもいいから早く来て」というと、瞳は電話を切った。
僕は駅まで走った。指輪のケースが、「早く、早く」と僕を急き立てるように鞄の中で音を立てた。駅に着き、電車を待つ間に携帯電話で試合の途中経過をチェックする。2対0で横浜がリードしていたのがまだ幸いだ。ホームに滑り込んできた急行電車に乗り、扉にもたれて目をつぶった。球場までは、あと40分…。



1時間半以上も待たせてしまったものの、なんとか球場で、瞳と合流できた。ぶつぶつと文句を言われ、謝りながらスタンドに陣取る。出端を挫かれてしまったが、僕の人生の懸かった一戦の行方を、瞳と並んで固唾を飲んで見守る。ふだん野球に興味のない僕が、こんなにも真剣に観ている理由を、瞳はもちろん知らない。試合は、僕達が球場についた時点で巨人が1点を返し2対1となっていた。
試合は横浜がリードを保ったまま8回まで進んだが、9回の表に小久保のソロホームランで同点に追いつかれ、延長戦になった。そして11回の表で清原のタイムリーで逆転されてしまった。そして、11回の裏に進む。
掌の汗を、ズボンの膝で何度も拭った。
石井琢郎が三振、内川がセカンドゴロに倒れ、早くもツーアウトになる。スタンドの巨人ファンのテンションも最高潮になっていた。金城が打席に立つ。2球目、林のストレートをセンター前に打ち返した。大歓声が上がった。金城は三塁を回って全力でホームにヘッドスライディングした。激しいクロスプレーとなった。



黙ったまま球場の出口へ向かう僕と瞳を、「絶対あれはジャンパイアだよ」と吐き捨てるように呟きながら、学生風の2人連れが追い越していった。大声で罵声をグラウンドに浴びせる横浜ファンもいた。
振り向いて眺めたグラウンドには、青いメガホンが、散った花びらのように投げ込まれているのが見えた。花占いをしたあとのようだった。
明らかにセーフだった。判定はそうではなかった。2対3で、巨人が勝利した。
僕と瞳は、球場近くのファミリーレストランに入った。試合が延長になったため、レストランの予約も間に合わなかったのだ。
瞳を待たせてしまった。横浜は不可解な判定で負けた。ディナーもふいになった。これでどうやって、瞳にプロポーズをしろというのだろう。深川の顔が浮かんだ。ごめん、せっかく応援してもらったけど、このピンチは、僕ではチャンスに変えられそうもないよ。
あまり言葉を交わさず、僕達は食事をした。瞳は怒っていたのだろうか、悲しんでいたのだろうか。試合の前に僕が言った、「勝ったら渡したいもの」についてもそれ以上訊いてくることはなかった。
情けなかった。瞳のことが好きで、結婚する気持ちは自分の中では確かだったのに、それを伝える術や、それを現実のものにするツキや、事態の変化を打開する機転は、結局僕にはなかったのだ。これで、瞳と結婚する資格があるといえるのだろうか。
コーヒーを飲みながら、話すこともなく黙っていると、時計が11時を回ろうとしていた。
「出ようか」と瞳を促し、席を立った。
夜更けの横浜公園の杜は、試合の喧騒も静まり、ほんの少し肌寒い。僕と瞳は、並んで関内まで歩いた。
「今日は、本当にごめん。待たせちゃったし、予約してたレストランも行けなかったし」
「もう、いいよ。仕方なかったもんね」と瞳は言った。
横浜市役所の前の横断歩道で、信号待ちをする。駅まではもうすぐだ。今日のために準備したいろいろなことが、何も活かされないまま今日が終わろうとしていた。瞳とも別れようとしていた。
悔しくなって、つないでいた手を強く握った。
「『どこでもドア』があったら、いいのにね」。唐突に、瞳が呟いた。
僕は瞳の顔を見た。僕の顔を見上げながら、瞳は言った。
「だってさ、もし『どこでもドア』があれば、茶太だって今日、球場まで慌てて来なくても済んだでしょ? 私だって、ここからすぐ家に帰れるし、だから、電車の時間を気にしないで、もっとゆっくり、茶太と逢っていられるのにね」
そうだ。僕もそう思う。瞳と少しでも一緒にいたいから、「どこでもドア」が欲しい。いや、「少しでも一緒にいたい」のではない。「いつも一緒にいたい」のだ。朝起きてから、夜寝るまで。この世の全てが激しく変化し、移ろってゆく時間の中で、瞳を放さずに、ずっと一緒の時間を生きていきたいし、生きていかなくてはならない。僕はそう心に決めたのだ。
だとしたら、僕達に本当に必要なものは、「どこでもドア」なんかじゃない。そうわかったとき、僕の口は勝手に動き出していた。
「『どこでもドア』なんか、いらないだろ」。僕は、まっすぐ前を向いたまま言った。
「え?」
そして、瞳に向き直った。
「『どこでもドア』なんか、いらない。僕達がいつも、ずっと一緒にいられるなら、そんなもの、必要ないんだ」
僕の言ったことの意味を量りかねているかのように、瞳は僕を見つめた。
「結婚しよう。いつも、2人で一緒にいよう。そうすれば、『どこでもドア』なんか、いらないから」
僕は鞄から、持って帰るつもりでいた指輪を取り出して、瞳に見せた。そして、もう一度言った。
「結婚しよう」
瞳が、僕に抱きついた。僕も、彼女を抱き返した。
「…これ、プロポーズなんだよね?」。瞳が訊いた。僕は抱きしめたまま、うなずいた。
「本当は、予約してたフレンチのお店で言うつもりだったんでしょ。柄にもなくかっこつけようとして」
そういって、瞳は笑った。ひとしきり笑った後、瞳は僕の腕の中で肩を震わせていた。
茶太、あたしでも、いい?」。途切れがちな声への返事の代わりに、僕はもっと強く、瞳を抱きしめた。夜の街の静かなざわめきや、木々を揺らす風の音、そして、電車の音はもう僕達には聴こえなくなっていった。
僕達に、「どこでもドア」なんかいらない。いらないけど、もしそれがあるのだとしたら、僕はきっと、その場所を目指して扉を開けるだろう。君の左の、薬指まで。(おわり)