28歳の夏休み⑧

湖から小学校へは、10分もかからずに辿り着いた。大人の足と子供の足の差だ。小さな山の麓にその小学校はあった。典型的な、田舎の山間の学校だ。ドラマか映画にでも出てきそうなほどだった。
彼女が拾った石器がまだあるのかどうか確かめてみたかったが、案の定、このご時世なので部外者の構内への立ち入りは難しそうだった。当たり前だ。僕が学校の警備責任者だったら、「東京から、昔好きだった女性を追ってやってきたのですが、石器はまだありますか?」という20代の男がやってきたら警察を呼ぶだろう。石器を諦めた僕は、怪しまれないように学校の周りを塀に沿って一周し、小さな山に登った。頂上、と呼べるほどの高さの山ではなかったが、そこには小さな神社もあった。ここまでありきたりすぎると、かえって笑えてしまうほどだった。
彼女の学校が見下ろせる場所に腰をかけて、僕は煙草を1本吸った。暑かった。汗が噴き出して僕のTシャツの色を変えていたが、タオルを忘れてしまったので掌でぬぐった。
静かだ。草いきれと煙草の煙が漂い、蝉がけたたましく鳴いている。時おり、風が吹き抜けていく。そういえば、夏だ。生まれてから28回目の、僕の夏なのだ。
僕は何をしているのだ? 僕はなぜここに来たのだ? 自分が、したいと思ったことをし、来たいと思った場所に来た。はずだった。でも、ここへ来てしまうと、それが果たして自分の意志だったのかということに、もやがかかったような不確かさを覚えた。
片思いをしていた女の地元に、会えるわけでもないのに、何の足しにもならないのに、思い出を辿りにやってきました。
口に出して呟いてみる。それが、僕の夏休みだ。呟いた言葉は煙草の煙と共に溶けていった。



去年の夏、キエフから彼女に絵葉書を出した8日後、帰国して出勤した僕は、彼女のデスクに誰も座っていないことに気がついた。欠勤ではないようだ。彼女のデスクになかったのは彼女の姿だけではなく、書類やパソコン、彼女の私物などの全ても消えていたからだ。僕は平静を装って後輩に訊ねた。
「オナカシマさん、いないみたいだけど?」
「あれ、聞いてなかったんですか? 退職したんですよ」。彼は事もなげに言った。
「え、嘘? いつ!?」。平静を装いきれなかった。
「ああ、そうか。ちょうど一斗さんが休みに入った日じゃなかったかな」
「何で? 退職理由は?」。言われていることがよくわからなかった。僕は休暇の前日にも彼女と会い、食事をしているのだ。もちろん、そのときにそんな素振りは全く見せていなかったし、そういった話もなかった。全くの、寝耳に水だった。
「いや、もちろん退職願には『一身上の都合』としか書いてなかったけど、何か噂では結婚したらしいですよ。だから寿退社ですね。あ、そういえば寿退社って何か神社の名前みたいですね、出雲大社、みたいな」
「でも、なんでこんなに突然に辞めたんだ?」。僕は詰問するように言った。
「結婚は結婚でも、何か訳ありなのかもしれないですね、どうも。そそくさと辞めて行ったし、退職後に送る年金とか雇用保険の書類も、とりあえず島根の実家に送ってくれ、とだけ言って人事にも新しい転居先とか連絡してないんですよ」
「結婚って、誰と?」
「知りませんよ。そういう詳しいことは言わないで辞めちゃったんですから。フジイさんとかオカダさんあたりの同期の人なら知ってるんじゃないですか。とりあえず社内の人間ではないようですけど」。そういうと、後輩はかかってきた電話に出てしまった。
彼女は、自ら消え去るように会社を辞めてしまった。結婚? 僕との間ではそんな男性の話は一つも出なかったし、そんな男性がいるような素振りも見せなかった。僕が夏休みの2週間のうちに、彼女は消えた。まるで、僕が日本にいない時期を見計らったかのように。
会社帰りに彼女のマンションを訪れた。彼女の部屋の集合ポストの差込口には、ガムテープが貼られていた。僕がキエフから出した葉書は、宛先には届かなかった。そして、返送されるべき場所もない。


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