28歳の夏休み⑨

煙草を3本灰にすると、僕は駅へ戻るために山を降りた。あっけなく登ることができた山は、降りるときはそれ以上にあっけなかった。駅に戻る途中に、再び神西湖に寄った。風にガマの穂が揺れ、降り注いだ陽光は、湖面で弾けてまぶしく散らばっている。小学生くらいの女の子が4人、遊んでいた。僕はその様子を眺めて、しばらく立ち止まっていた。彼女達も、彼女達なりの夏休みを過ごしているのだ。
子供の頃は、なぜあんなに夏休みが短いと感じたのだろう? 駅までの道を歩きながら、僕は考えていた。7月20日に夏休みが始まったときは、8月末までという期間は子供の僕にとってほとんど無限といってもいいくらい長い時間だと思っていた。しかし、気付けば8月31日は律儀に確実にやってきて、多くの計画性のない子供に責め苦を与えるのだった。そうだ。子供の頃の時間は、夏休みに限らず、あんなにも短かった。短く感じられた。
それは、子供の頃にはやらなければならないことがたくさんあったからだ。立てなくなるまで走り回って遊ぶこと、友達と喧嘩をすること、人を傷つけたり、傷つけられたりすること、誰かに恋すること、将来の夢を描くこと。一人前の人間としてまともに生きていくために、子供のうちに経験したり、覚えたり、考えたり、感じたりしなければならないことが、たくさん、たくさんあったのだ。子供の頃の僕達は、それを体中で、めいっぱい浴びながら、少しずつ大人になっていったのだ。
大人にだって、やらなければならないことはたくさんある。でもそれは会議の資料作成だったり、業者との面談のアポイントだったり、社内での根回しだったりといったことだ。そんなくだらないことに忙殺されていく時間は、暗く色褪せて、そして長い。子供の頃の、カラフルで眩しく、そして短すぎる時間に比べれば。



駅に着いた。時刻表を見ると、上りの電車は45分も待たねば来ない。売店もない、寂れて小さな無人駅なので、僕は切符を買う前に近くの自動販売機でコーヒーを買った。
開いた財布の中から、印刷もほとんどかすれてしまったレシートが1枚出てきた。僕が、彼女からもらった携帯電話のメールアドレスだった。
「一斗くんは、携帯のメールアドレスって持ってないの?」
トマトのカッペリーニを食べている途中で、彼女は僕に訊いた。2人で初めて食事に行ってから2週間後、今度は僕が好きなイタリア料理店に彼女を連れて行ったときのことだ。
「ありますよ」。ナプキンで口を拭って、僕は答えた。この店は、ペローニのナストロ・アズーロやグラン・レゼルバなどのイタリアンビールを置いているので、ワインが苦手でビールが大好きな僕達にはうってつけだったのだ。
「なんで教えてくれないの?」
「訊かれれば教えますよ」
「私のメールアドレスは訊かないの?」
「女性には、自分からは訊かないようにしているんで」
「そっけないんだね」。彼女はビールを飲んで笑った。
「自分から、ホイホイと女性にメールアドレスや電話番号を訊くほど軽薄じゃないんです」。取り繕うように僕は言った。
「軽薄じゃない、なんてかっこつけてるけど、本当は奥手で受け身なだけなんじゃない?」
図星だったので、僕は照れ隠しでビールを飲んだ。
「じゃあ私のアドレス、教えてあげる、って言ってもいらない?」。子供が欲しがるビスケットを手の中に隠した母親のような顔で、彼女は言った。
「いや、いりますいります」
「じゃあ、何かメモできる紙、ちょうだい」
僕は慌ててポケットや財布をまさぐったが、メモらしい紙は出てこなかった。
「これでもいいですか?」。僕はおそるおそる、財布の中にたまたまあった紙切れを出した。
「何これ? 『つるかめランド和田町』?」。彼女は思わず声を上げて笑った。
「裏は見ないでくださいよ。母親の実家に行ったときに、祖母の買い物に付き合ってあげたんです」。彼女の手からレシートを取り上げると、裏返しにしてテーブルの上に置いた。
「変わった名前のお店ね。はい、これが私のアドレス。私が自分から教えることなんてめったにないんだから、ありがたく思いなさいよ」
片方の肘で頬杖を突き微笑して、彼女はレシートを僕に返した。


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