「一斗ー、ちょっとシャーペンの芯貸してー」(超長文)

最近、どうも体調がよろしくないなぁ、と思っていてハタと気が付いた。
そういえばここのところ妄想してなかったな、と。やっぱダメだね、忙しいからって食事と睡眠と妄想に手を抜いちゃ。というわけで主として私の健康上の理由で、これから少々妄想をするので許されよ。
毎度毎度で威張るわけではないのだが、私は高校から男子校に進んでしまった。思春期という、魂のいちばん柔らかな時期に女性と隔離されて過ごした結果、失ったものや逃してしまったものはいくつもあるが、その一つが「同学年の女子に苗字(もしくは名前)を呼び捨てされる」という経験である。
共学の(それもイメージ的には公立)高校では、当たり前だが男子と女子が机を並べて同じ月日を過ごし、少しの英語とバスケット、そして恋を覚えたり覚えなかったりしてるわけだ。当然、そこでは男女の距離も近い。男子が女子を苗字の呼び捨てで呼ぶばかりでなく、女子も男子を呼び捨てなのだ。嗚呼青春、なのだ。「ねえサカモトー、数Ⅱの宿題やってある? あたし、忘れちゃったんだけど今日当てられそうなんだよねー」ってなもんである。むろん私も中学までは共学だったのだが、苗字の一文字を取った「とまくん」というニックネームで長らく呼ばれていたので、女子から苗字で呼び捨てされた経験はない。大学に入ってからはうさこさんなどの女性の先輩がそのように呼んでくれたが、先輩から呼び捨てされるのは私の中では当たり前であって、同学年の子がそう呼ぶからこその「近いの? 遠いの? やっぱり近いの? ムフフ」的距離感、もしくは『BOYS BE…』感が醸成されるのである。残念ながら大学の同学年の女子はみんな、「一斗くん」という適当な距離感を保った名前でしか呼んでくれなかったのだ。
健全な神経と青春期の経験を持ち合わせた方ならば「女子から呼び捨てされることの何がそんなに嬉しいの?」と思われるかもしれないが、甘い。そんな方はなまじ(私と違って)健全な青春期を過ごしたために無自覚か、無知なのだ、「マグローの法則」のことを。アメリカの心理学者A・マグローが提唱した、恋愛欲求5段階説を。これは、恋愛関係にある異性間(もしくは同性間)において、互いの呼び名は2人の親密度に応じて5段階を経て発展してゆくことに着目し、恋愛における達成感、成就感は恋愛の対象である異性(もしくは同性)が自分を呼ぶ呼び名によって変化し、1つの段階を経てからはさらなる高次の段階へと達することを人間は欲する、というものである。すなわち「①名前を呼んでもらえない→②くん・さんなどの敬称づけ→③呼び捨て→④2人だけの間でのニックネーム→⑤名前を呼ばない、呼ぶ必要がない」の5段階なのである。異論は却下します。これは、必ずしも恋愛関係にある2者間のみに当てはまるのではなく、むしろその呼び名につれて2者間の親密度や恋愛関係が高まる、つまり最初に「呼び名ありき」の関係が成り立つ、という仮説が20世紀末に、日系イギリス人の心理学者チャタ・トマスによって提唱されている。すなわち単なるクラスメートの間にもそれが成立しうるのである*1
「マグローの法則」について長く書き過ぎたかもしれないが、それに従うと、私は小・中学校の9年間かけて、②の「くん・さんなどの敬称づけ」にしか自らを発展させ得なかったのだ。情けない話である。ともかくも、そんな事情で私は「同学年の女子が自分の苗字を呼び捨てする」というシチュエーションに憧れているのである。文句あるか。
で、私の理想の「苗字呼び捨てシチュエーション」、それはもう悪いけど『BOYS BE…』の世界である。具体的には「幼馴染で、恋愛感情なんて持ってなかったはずなんだけど、最近妙に女っぽくなったように感じられてだいぶドキドキ気にかかる、普段は女っぽさを殊更に見せない活発な女子(ショートカットなら尚可)」とのっ! 呼び捨てのっ! シチュなんでありますっ! 伍長殿ッ、上野樹里なんでありますッ!(←錯乱中)。


10月も半ば。そろそろ朝や夕暮れどきに少し肌寒さを感じるような季節。赤く昏れた陽が校門に影を落とし、長く伸びている。
部室で麻雀に興じて少し遅くなってしまった。自転車を引きながら校門へ向かおうとする僕に、「一斗ーっ!」と声をかける女子がいた。僕は振り返った。
「なんだ、樹里っぺか」
「あたしじゃ不満? それからいい加減、『樹里っぺ』って呼ぶのやめなよ。カレシでもないのに」
「カレシでもないのに」、という言葉になぜか一瞬反応してしまったのを気取られないように、僕は自転車のハンドルを握りなおした。でも、物心ついたときからこう呼んでいる。「樹里っぺ」は「樹里っぺ」だ。今さら呼び名を変えるのも、何か不自然なように感じられた。
「なんか用?」
「あ、そうそう。ねぇ、もう帰る?」。樹里っぺは僕に訊ねた。
「うん、まぁ。何で?」
「悪いけどさ、ちょっと駅まで送ってくれない? チャリでしょ? ちょっと人と待ち合わせしてるんだけど、電車に間に合わなさそうなんだ」
樹里っぺは普段、校門の近くから出る路線バスに乗って駅まで行っているが、この時間は道路も込むので、遅れて来ない保証はない。
「ああ、いいけど…」
「あ、なんかイヤがってない? 昔はよく三輪車の後ろに乗っけてくれたのに」
「そんな昔の話、いま持ち出さなくてもいいだろ。わかったよ、後ろに乗れよ」
「やったねー。ありがとう、一斗」
一瞬だけ、後ろの席に座って僕の胴に腕を回すのか、と期待したが、樹里っぺは後ろのスタンドに立った。
「さぁ、しゅっぱーつ!」。まったく、相変わらず僕といるときは子供の頃のままだ。
樹里っぺがクラスの一部の男子から人気がある、ということは知っていた。幼馴染である、ということもあってそういう男子に「上野ってカレシいるの?」と訊かれたこともあったが、「そんなもの、自分で訊けよ」と僕は取り合わなかった。
「うん、カレシならいるよ」。そういう答えを聞いてしまうのが怖かったからも知れない。
そのとき、僕は気が付いてしまった。
「僕は、樹里っぺが好きなんだ」
自転車をこぎながら口の中で呟いた言葉は、向かい風にまぎれて細かくちぎれ、夕焼けの中に消えていった。樹里っぺにも聞こえてはいないだろう。
「ヒュー、自転車って気持ちいいねー!」。樹里っぺは僕の後ろでご機嫌だ。たぶん、そんな僕の気持ちにも気づいてはいないんだろう。
「あんまり立って騒ぐなよ、こぎにくいだろ」。僕は文句を言った。
「うるさいなぁ、黙ってこぎなよ」。樹里っぺは意に介さない。
「それより、少し太ったんじゃないのか? 重く感じるぞ」
「黙れ、ちゃんとこげ」。樹里っぺは後ろから僕の頬をつねる。
「いてててててて、わかった、わかったって。あ、前に坂がある。ちょっと降りてくれよ」
「スピードアーップ!」。前を指差して、彼女は叫んで号令をかけた。
「仕方ないな…」。僕はペダルを踏む力を、思い切り強くした。もし、もしかしたら、この坂を止まらずに登りきれば、樹里っぺは僕のことを…。そんな馬鹿げたことを考えて、僕は少し笑った。後ろで樹里っぺも笑った。笑ったような気がした。暮れなずむ秋の高い空に、いわし雲が広がり、川原を渡ってくる風はすすきをゆらしていた。
駅前には、時間通りに着いたようだった。
「あー、よかった。間に合った。助かったよ。ありがとうね、一斗」
「うん、よかったな。ところで待ち合わせって、誰とだよ」
「誰とだっていいでしょ」
「ひょっとしてデートだったりして」。僕は平静を装いながら、しかし恐る恐るかまをかけた。
「うん、そうだよ」。樹里っぺは言った。「えっ!」。僕は思わず聴き返してしまった。樹里っぺは笑った。
「ウソに決まってるでしょ。あたしが誰とデートするっていうのよ。ちょっと買い物があって、従姉に付き合ってもらうだけ」。
「なんだ」。思わず胸を撫でおろしてしまった。まったく、昔からこういうところは変わっていない。
「じゃあ、俺はバイトがあるから、これで。またな」。そういうと、僕は自転車のスタンドを倒した。
「うん、ありがとう。また明日ね」。そういって軽く手を振ると、樹里っぺは駅の構内に消えた。


ケータイが鳴った。ミキ姉からだった。
「もしもし?」
「あ、樹里? 大丈夫、間に合いそう?」
「うん。クラスの子にチャリで送ってもらったから」。電話の向こうでミキ姉が笑ったのがわかった。
「その子なんでしょ? 樹里がプレゼント買いたいっていう、気になってる男の子って」
「いいでしょ、誰だって」。ミキ姉にからかわれて、あたしはちょっと慌てた。
「なんかお茶だか一斗缶がどうとかっていう名前の…」
「いいから! じゃあ、6時半に改札でね。切るよ。バイバイ」。あたしは一方的に電話を切った。
ちょっと赤く、ぽうっとしている頬を、夕暮れの風がひやっと撫でていった。電車が、もうすぐやってくる。



久々の妄想だもんだから超長くなった。すんません。人気blogランキング

*1:なお、これは同じくチャタ・トマスによって「非恋愛関係にある2者間においては、適用の年齢上限は19歳である」という経験則が指摘されている