赤い手(例によってかなり長文)

そろそろ首都圏の朝晩も、本格的に寒くなってきた。基本的に私は暑がりストなのでこの時期の服装にはいつも悩むのだが、さすがにいつでも出せるようにコートをスタンバイしているし、最寄り駅までの原付移動では手もだいぶかじかむようになった。
朝の起床や入浴の際の脱衣など、寒くなると辛くなってくるものはいろいろあるが、「待ち合わせ」もそのひとつだろう。寒空の下、なかなか来ない女性を白い息を吐きながら待っている、というのはちと辛いものだと思う。一般的には。

(↓もうそうきけん。よんだらしぬで)
しかし、私は寒空の下で女性を待つ、という場面が実はけっこう好きだったりする。いや、どのような場面であろうとも女性を待つ時間というのは好きなのだが、暑がりストとして夏はカンベンしてほしいので、やはり冬でお願いしたい。
たいていの人は、自分が誰か人を待つような事態になることを「待たされる」という。単に「待たせる」の受動といえばそれまでだが、そこには「やれやれ、待つ破目になってとんだ災難だよ」といったようなニュアンスが感じ取れはしないだろうか。しかし、その認識はおかしい。「待たされる」というのはそんなネガティブなものではない。なんなら「待たせていただく」ぐらい言ってもよいほどだ。何となれば、待ち合わせの時間が長い方が、これからやって来る人と出会う楽しみは増えるのだからである。イラついて無為に過ごすのではなく、「『ラブラブモード』を高めるためのチャージタイム」とポジティブに捉えると、それは重要な意味を持ってくる。どんな格好で来るのだろう、第一声は何だろう、何故遅れたのだろう、「ごめんね、遅れて」って謝るのだろうか、ならば自分はどう答えよう…、そんなことを考えて、寒空の中、手をポケットに突っ込んで、あるいは熱い缶コーヒーを手の中で転がして、彼女を待つ時間が楽しくなくてなんであろう。私はその第一声と表情がぱっと目に入るのが楽しみで、相手が来て声をかけるまで目を瞑っていたり、空を見上げていたり、本を読んでいたりすることもあるほどだ。
待ち合わせは単なる事務的な集合ではなく、デートの醍醐味といってもそう過言ではあるまい。スイカの一切れの尾根の最初の一口がいちばん甘いのと同じように、遅れた人を少し心配しながら、人ごみの向こうに自分を見つけて手を振ってくれるのを待つというのは唯一、デートの最初の部分のみに堪能できる甘やかな部分なのである。俵万智の短歌に「君を待つ土曜日なりき待つという時間を食べて女は生きる」というものがあるが、男だって「待つ」という時間を食べる、情けなくも愛すべき生物だ。そこらへんの機微を余すところなく歌ったのが、スキップカウズのメジャーデビュー曲『赤い手』赤い手である。雪の降りしきる中、待ち合わせに遅刻した彼女を、かじかんで赤くなった手で待っている、という曲だ*1

雪の降る街角で 僕は君を待ってる
手を赤く染めて 白い息を吐いて
電柱の隅っこで 僕は君を待ってる
足がかじかんで ひとつになっている


遠くから君が呼んでいる 遠くから僕は手を振ろう
遅刻した君より赤い手で ずっと待った 君よりも赤い手で

これを聴くと、やはり女性を待つのは冬だな、と思ってしまう。待ちぼうけを食わされた男なんてあまり絵になるものではないが、それでもこれだとちょっとだけは様になっているというか、雰囲気があるような気がしてしまう。
いまの若い人には(と年寄りぶって言ってしまうが)、ケータイもメールもない時代の待ち合わせのドキドキ感が理解できるだろうか? いまなら「ごめん、ちょっと道が混んだんで10分ぐらい遅れるね」と手軽に電話やメールで連絡できるが、私が学生の頃はなかなかそうはいかなかった*2。相手が待ち合わせに遅れる。どうしたのかな? ちょっと家を出るのが遅れたのかな? 場所がわかり難くて、着いたけど私を見つけられないのかな? そんなちょっとした心配(c)と、相手がやってくることへの期待(e)、そしてもしかしたら来ないかもしれない、という恐怖(f)*3が複雑に混ざり合っていく。そして、しばし待ったのちに、遅れてやってきた彼女と出会う。そんな冬の街角が、私は好きだ。


顔を上げて大きく息を吸い込むと、駅前の大型ビジョンが目に入った。17時16分。
風のあまりの冷たさに、深呼吸した鼻の奥が痺れるように冷えた。僕はそんな感覚を、「雪の匂い」と呼んでいた。
大型ビジョンに映し出された天気予報は、今夜の天気を「雨ところにより雪」と伝えている。降水確率は70%だ。
そして、彼女が来る確率は。
「まだ来ないのかな…」。両手をこすり合わせながらひとりごちた。
コートのポケットに手を突っ込んで煙草の箱を取り出すが、もう空っぽだ。手の中で握りつぶして、足元に投げ捨てる。
あたりを見回してみる。20分前に着いたときには5〜6人いたはずの、僕と同じような待ちぼうけの男達は、僕を含めて2人だけになってしまった。それぞれ皆、謝る彼女の肩を抱きながら、寒い冬の街へ1人、また1人と消えていった。そして、僕ともう1人が残されたのだ。
煙草を挟むように指を立てて、マルボロの煙の代わりに、白い息を吐いてみる。煙草を買いに行きたかったが、近くに自販機は見当たらない。
「もしかしたら、買ってる間に来ちゃうかもしれないしな」
こすり合わせた両手に息を吐きかける。寒い。「雪の匂い」は、先ほどよりも強くなったようだ。
上り電車がまた着いた。駅からは、暖かそうに着ぶくれした人たちが吐き出されてくる。駅前に灯ったクリスマスイルミネーションの川の中に放流された、稚魚のようだ。その稚魚たちは、人ごみに自分を待つ人を見つけると、あるものは手を振りながら、あるものは歓声を上げながら、あるものはしきりに謝りながら近づいていく。そして、連れ立ってイルミネーションの海へと泳ぎ出していく。
そして僕は、まだ相手と出会えない頼りない魚だ。
真っ黒な空を見上げる。吹きすぎる風がとても冷たくて、涙が出そうになって目を閉じる。
今頃はもう、山手線の中なのかな。
意外と小心者だから、僕を待たせたことをずっと気にしているかもしれない。
彼女の家の最寄り駅は、あまり交通の便がよくないから時間通りの電車に乗れなかったのかもしれない。
「バカだな」。少しぐらい遅れたっていいから、気をつけて来いよ。
いまにも泣きそうな顔で、気を急かせながら電車に揺られている彼女の顔を想像していると、目が潤んだ。寒さのせいだ、多分。
顔を上げているから、ピーコートの胸のVネックから寒風が吹き込んでくる。大型ビジョンは、17時28分を指した。駅前は、雑踏を行きかう人々のさざめきと、途切れることのない車のノイズと、ひっきりなしに流れている山下達郎の曲で大した騒がしさだ。
その騒がしさの底から、微かに、聞きなれた声が途切れがちに聞こえてくる。
茶太ーっ!」
彼女の声だということはわかっている。きっと、遅刻して不安な気持ちでいるのだろう。そんな彼女を安心させてやるために、僕は笑顔を作ろうとした。でも、その必要はなかった。
「ごめーん。本当にごめん。電車、快速に乗れなくて…」。彼女がちょっとだけ涙声で近づいてくる。僕は上を向けていた顔を下に向けた。「……待ったよね?」。上目遣いで不安そうに僕の顔をのぞきこむ、彼女の情けない表情を見ていると自然と僕の顔は崩れた。
「ちょっとだけね」
「ううん、30分も経ってるもん。ごめんね」
「いや、セーフだよ」。大型ビジョンは17時29分から、たった今30分になった。
「30分経たなければ、遅刻のうちに入らないさ」
「そうなの?」
「僕のルールでは、だけどね」。たかだか30分くらいの遅刻でガタガタ言う趣味は、僕にはない。けっこう寒い29分間ではあったけれど、その分、暖かい時間が待っている。
「ほら茶太、手がこんなに冷たいよ」。彼女は僕の両手を取った。自分でも、かじかんで感覚がなくなりかけているのがわかった。
「心が温かいからね」
「何それ?」
「いや、なんでもない」。この俗信はあまり有名ではないのかもしれない。
「ねぇねぇ、なんかさぁ、スキー場みたいな匂い、しない?」。彼女も「雪の匂い」に気が付いたようだ。嬉しくなった。
「雪になりそうだからだよ」。僕は彼女と手をつないで、横断歩道へと向かった。もう1人の男の待ち人は、まだ来ていない。
「その分、逢えたときは楽しいから、頑張れよ」。僕は胸の中で彼に声をかけた。
「そういえば何で遅くなったの?」。僕は歩きながら訊ねた。
「えへへへ。ねぇ、茶太。首筋寒くない?」。彼女は手に持った紙袋を僕に渡す。
雪が舞い始めた12月の街に、僕たちは稚魚のように泳ぎ出していった。


そんなわけで、待つ身もなかなか楽しいよ、というお話でありました。ただ懸念されるのは、これから私がここの読者である女性と待ち合わせするときには「遅刻され放題」になるかもしれない、ということなのですけれど。



モノには限度ってものがありますよ、一応。人気blogランキング

*1:作詞者であるヴォーカルのイマヤスこと今泉泰幸に直接聴いたのだが、この『赤い手』というタイトルがソニーには不評で、『待ち合わせ』という身も蓋もない名前に変えさせられそうになったらしい。どうでもいいが、スキップカウズの歌には『たばこ』など「彼女を待つ男」をテーマにしたものが多い。

*2:私が大学に入ったばかりの頃はまだ「ポケベル」を持っている人も多く、初めてお付き合いした相手はユーザーだったが、私はベルを持っていなかった。次の相手の頃ぐらいにケータイやメールがようやく普及し始め、私もそれに伴って持つことになったものだった。

*3:このcとeとfの割合は、待つ時間が経つにつれて[e>c>f]→[c>e>f]→[c>f>e]→[f>c>e]と変化する、という法則をこれを発見した日系イギリス人の心理学者の名を取って「チャタ・トマスのフェーズ」と呼ぶ。