風の茶太を聴け

「完璧なクイズ問題などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったあるクイズ作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧なクイズ問題なんて存在しない、と。
しかし、それでもやはり何か問題を作るという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕が問題を作ることができる領域はあまりにも限られたものだった。例えば象について問題が作れたとしても、四不象については何も問題が作れないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。――8年間。長い歳月だ。
もちろん、あらゆることから問題を作ろうとする姿勢を持ち続ける限り、クイズの問題作成はそれほどの苦痛ではない。これは一般論だ。
20歳を少し過ぎたばかりの頃からずっと、僕はそういった問題の作り方をしようと努めてきた。おかげで他人から何度となく手痛い打撃を受け、嘲われ、誤解され、また同時に多くの不思議な体験もした。様々な人間がやってきて僕に問題を出し、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと地蔵になり、何も答えなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ作れてはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、クイズの問題を作るということは自己療養の手段ではなく、ただの仕事に過ぎないからだ。
しかし、正直に語るということはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、問題の正確なウラ取りは闇の奥深くへと沈み込んでいく。
弁解するつもりはない。少くともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何問か何十問か先に、Q済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で問題を読み始めるだろう。
                                  つづく(の?)




この調子でずっと書くのは大変そうだ。人気blogランキング