しびとのむれがあるく

何で知ったのかも、誰のものだったかももう忘れてしまったけれど(多分、中島らもの本で、だったような気がするが)、昔に読んだ本の中に、こんな言葉があった。
「人は二度死ぬ。ひとつは肉体の死、もうひとつは人々の記憶の忘却」
これは実感としてよくわかることではないだろうか。肉体が滅び、ある人の物理的存在がこの世から消える。そして、時間が経つことによってそれは人々の記憶の中からもだんだんと消え失せていき、やがて忘れ去られたとき、一人の人間の「死」が完成する。もしかしたら葬儀だの墓参だの法事だのといったものは、結局のところそれに抗うための手段に過ぎないのかもしれない。
ところで、この二つの「死」は必ず決まった順番で、すなわち「肉体的な死→記憶的な死」という順番でのみ訪れるものなのだろうか。
ある人にとって、誰かの存在の記憶が、その誰かの肉体的な死より先に消え去ってしまう、ということがある。出会って、付き合って、別れて、を繰り返していく会者定離が世の習いだけれど、そんな中で、さすがに私たちは出会ったすべての人のことについてまで覚えてはいられない。だから、自分の記憶の中から消えた人、つまり「記憶的な死者」というものを私たちは作り出す。もう会うこともなければ、思い出すこともない人、それが記憶的な死者である。たいていの場合、記憶的な死者については、その消息を知らずにそのままとなってしまう。たまさか、人づてや何かの機会にその人が「肉体的な死者」となったことを聞かされたときには、「ああ、そんな人もいたっけな。へぇ、亡くなったのか」と一瞬だけその記憶が甦るだろうが、やがてそれも泡のように消えていく。こうしてまたひとつ、誰かの「死」が完成していく。
そうして考えてみると、私も、そしてこれを読んでいる方も、もしかしたら既に「死んで」いるのかもしれない。誰かの記憶の中から消えてしまっている、「記憶的な死者」となっているのかもしれない。離れ離れになり、もう二度と会えない人の記憶から、私がだんだんと消えていく。それは砂漠に飲み込まれる小さな街のように。そして、自分が誰かの「記憶的な死者」となったかどうかは、自分では認識し得ないのだ。離れ離れになったところで別にもう会いたくない人の記憶からであろうと、いつかもう一度どうしても会いたいと願っている人の記憶からであろうと、その「死」は平等に訪れる。せいせいすることに、あるいはやりきれないことに。
人は「肉体の死」に際して命乞いをすることができる。では、「記憶の死」に際してはどうだろうか? そんなことができるのだろうか? できるとすればどのようにしてだろうか?
それはよくわからないし、まるで見当はずれのやり方かもしれないけれど、命乞いをするように、私はブログを書いていたりする。
人ごみの中を歩くとき、朝、ラッシュの駅のホームの階段を人々の群れの中の一人として降りていくとき、私はふと思う。みんな死人なのだ、と。死人の群れが歩いているのだ、と。今日も私は誰かを死なせる。そして、誰かに死なされる。




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