ことばのツケ、気持ちのツケ

寿司屋などで客が勘定を支払うことを「おあいそ」といったりする。この言葉の語源はもともと…とか、本来は客が使うのは誤りで(実際、私は使わない。なんか半可通っぽいんだもん)…といったようなうんちくをここではあんまりくどくどと述べたくはない。ないのだが、エッセンスだけ言うと、常連で通人の客はあえて勘定を全額払わずに、一部(あるいは全部)をツケにするのがかつては普通だったという。「どうせまた来るよ、だから残りは次に来たときね」というわけだ。今後もその店に通うという意思表示がツケ払いであり、それを全て清算してもうここには来ないとする決別の意思表示が「おあいそ」というわけである。だから、客のほうから「おあいそ」と言うのは無粋な行為であったのだ。
「おあいそ」とは言わない私には、ツケ払いが利くほど常連として通っている店などないし、そもそもそんな信用もない。ないけれど個人的に、これと同じような発想で似たようなことをしているものがある。それは、人と会う場合だ。
会うことが前もってわかっている人とは、私は会う前に、「あのことを話そう」「このことを訊こう」といろいろ考えておくことがある。だけど、また会いたいなと思う人と会う場合には、そんな前もって考えておいた話題のいくつかを話さなかったり訊かなかったりする。それは意図的にすることもあるし、結果的に話し忘れる、訊き忘れるということもあるのだが。
そして、帰る道すがらで「あ、そういえばあのことを言うのを忘れた」と思い出す。そして、「まぁ、いいや。次に会うときにしよう」と思う。客が勘定を全部払わないのがその店とまだつながっていたいという気持ちであるならば、私が言いたいことを全部言わないのはまだその人とつながっていたいと思う気持ちである。逆に言えば、その人に言いたいことや訊きたいことを全て話してしまうと、なんだかその人との縁がそこで切れてしまうような気がしてしまうのだ。もちろん、不幸なことにその人と何かのきっかけでそれっきりになってしまったり、あるいはその人が私の前から永遠に姿を消してしまう、ということだってあるかもしれない。その場合、話しておきたかったことや訊いておきたかったことはどうなるのだ、と言う人もいるだろう。でも、そういった心残りを抱えずに生きていくということの軽さは、何だかさびしい。いつ縁が切れても後悔しないような関係というものは、ある種の「理想」ではあっても「現実」ではないのだから。
だから私は今日も、別れる人の背中に向かって手を振りながら、言いたい言葉を飲み込んでいく。





え、あんだけベラベラ喋っててまだ言い足りないの? とか言っちゃヤダ。人気blogランキング