ちらし寿司の「正解」とは?

以前、ネットラジオの番組で「普通の人には好物かもしれないが、自分としてはあまり食指が動かない食べ物」というテーマで喋っていたときのこと。あるリスナーから「自分は『炊き込みご飯』があまり嬉しくない」というメールが来た。
これは、すごくよくわかる。炊き込みご飯類(かやくご飯、まぜご飯など。どう違うのかは知らんが)は私も個人的にあんまり「わぁい、炊き込みご飯だ!」とはならない。なぜかというと、私の中では「ご飯+おかず」という思考が根強く、抜き難く存在しているからだ。「ご飯」は、「おかず」なくしては「ご飯」として存在し得ず、逆もまたしかりである。二項対立だ。きわめて近代的な思考の枠組といえよう。しかるに、炊き込みご飯類は、それのみで「ご飯」と「おかず」が一体となっている。近代的合理主義を突き詰めた結果、そこでは「ご飯」と「おかず」という厳然たる「区別」、換言すれば、我々米食民族が長年依拠したるところの「秩序」が破戒され、紊乱されてしまっているのである。これがポストモダンというやつだ。違うと思うけど。
同様なことは、ちらし寿司にもいえる。無論私はここで、お寿司屋さんにある、新鮮な魚介ネタが載せられた所謂「ばらちらし」を批判の俎上に載せたい(寿司だけに)のではない。昔『3時のあなた』の中でよく生コマをやっていた桃屋のほうの、所謂「五目寿司」のことについて語ろうとしている。これはどのように食べればいいのか。前者の「ばらちらし」は、別に皿を用意し、載せられたネタを移し変えてやれば、形の上では「ご飯」「おかず」の「聖なる伴侶」たる関係がたちどころに現れる。だが「五目寿司」はどうか。もう何がなんだかわからぬほど渾然一体としているではないか。かんぴょうも椎茸も桜でんぶもたけのこもぐっちゃぐちゃである。「ぐっちゃぐちゃLOVEメール」である。違うけど。この「ぐっちゃぐちゃ」感が、「ご飯」「おかず」思考主義者である私をして、耐え難い「価値観のカタストロフ」を与えるのである。
そして私の疑問は、そういった「ぐっちゃぐちゃ」的米料理が食卓にのぼった場合のことにまで至る。
ま、茶碗には炊き込みご飯(乃至ちらし寿司)がよそられている。そして、おすまし的な汁物も一緒についてくるだろう。
……え、終了!? マジで? 一汁無菜? 今日び、刑務所の飯だってもう少し何かあるぞ。しかも、その情緒的な抵抗感だけではなく、「じゃああんただけ、昨日のギョーザの残り焼いてあげようか?」みたいな話になったところで「…炊き込みご飯にギョーザかよ?」という味覚的な抵抗感がやってくるのである。
難しい。「ぐっちゃぐちゃ」的米料理は実に難しい。しかし炊き込みご飯も五目寿司も、女性にはお好きな方が多い。彼女たちは一汁無菜で満足なのだろうか。そういったものは、どのように食べるのが正解なのか。もう30歳になろうというのに、私はこの問題に正面から向き合い、真剣に考えてくることをしなかった。
果たして「ちらし寿司の『正解』」とは何なのか? しかし、それを考えていくには日暮れて道遠し、の感がある。
などと、ここまでさんざん炊き込みご飯系を糾弾しているが、実は釜飯とかおこわとかチャーハンは意外と好きだ、ということは今さらナイショである。




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