生きることの「余白」

小さき者へ』読了。
小さき者へ (新潮文庫)
以前、石原千秋が「重松清は読者を信頼している。だから、作品に『余白』をたくさん残すことができる作家である」といった意味のことを書いていた。この場合の「余白」とは、「わざとすべてを書ききってしまわずに、読者の判断や想像にゆだねる」部分のことである。当然、作者としてはとんでもない誤読をされないように、あまり大胆な「余白」というのは残しにくいものなのだけれど、重松清は違う(だから彼の作品は現在、中学・高校の国語入試問題に頻出なのだろう)。自分の読者を信頼しているし、もちろんそれ以上に自分の書く作品を信頼しているから、「余白」を残す作家なのだ、という。
小さき者へ』は6作の独立した短編から成る作品だが、やはり彼らしく「余白」が多い。そして、重松自身が「『問題がなにも解決していないじゃないか』と叱られることの多いぼくのお話の中でも、本書の六篇はとりわけ『解決しなさかげん』が際立つものとなった」とあとがきで書くように、結末も「余白」を大きく残す、オープンエンディングとなっている。
確かに、「どうせお話なんだから、すっきり、ほのぼのさせてくれよ」(これは「現実の残酷さとドロドロさに登場人物をもがかせろよ」でもいいのだが)というフィクションの「後味」を期待する向きには物足らないかもしれない。だが、私はこの「解決しなさかげん」が好きだ。好き、というのが当たらないならば、それが「本当」だと思う、と言い換えてもいい。それは、先に引用したあとがきに続けて「でも、それがぼくの考える生きることのリアルだ」という重松の主張と重なる。
「現実のキツい勾配から逃れることのできない彼や彼女たちが物語の終わりで踏み出した一歩は、坂を下るのではなく上るための一歩であってほしい――と祈りながら書いた」
私も、そう祈りながら読んだ。
元気のいい弟と対比され、自分の祖母と折り合いが悪いおとなしく神経質な男の子カズキを描いた『海まで』と、中学受験に失敗した自分のチームの子らに、春のセンバツの入場行進を見せてやりたい、と甲子園に連れて行くリトルリーグの監督を描いた『三月行進曲』が個人的によかったと思う。




『哀愁的東京』も読んでる。重松清づいている。人気blogランキング