天使の涙

月曜の夜。ネットラジオの生放送を終え、帰宅途中の電車にて。
時間は、23時をそろそろ指そうかという頃だった。私はドアにもたれて、音楽を聴きながら本を読んでいた。
ふと読んでいた本のページから顔を上げると、私の近くに、私よりは2〜3歳年上という感じの、「ひどい顔」の女性が立っていた。
「ひどい顔」とは顔だちや面相が、というわけではない。むしろ、顔だち自体は決して不美人の部類には入らないと思う。ただ、彼女の顔は「コンディション」がひどかったのである。
彼女はノーメイクだった。目の下に少しくまがあり、顔には、隠そうという意思のあまり感じられないしみやそばかすが散っていた。そして、隠そうとしてもおそらく無理だろうと思われる疲れが、彼女の顔にははっきりと現れていた。吊り革に両手でつかまり肘を90度に曲げて、そこを支点にしてよりかかるようにして、疲れ果てたように立っていた。
「やだ。今日のわたし、ひどい顔…」
もし、女性がいまの状態の自分の顔を鏡で見たら、きっとそう言うだろう、そういう意味での「ひどい顔」だった。
そして、彼女は泣いていた。
見間違いかと思ったが、見間違いではなかった。顔をくしゃくしゃにゆがめて、というわけではないけれど、目を赤く泣き腫らしていたし、頬には、車内の灯りに光る涙の筋がつたっていた。表情自体は普通だったけれど、彼女は静かに泣いていた。
私は、その女性が泣いていることに気付き、しばらく彼女の顔を見つめてしまった。電車の中で泣いている女性を見る、ということなんてあまりないので、目を奪われてしまったのだ。
なぜ泣いているんだろう。
どうしてそんなに疲れた顔をしているんだろう。
ノーメイクで出かけるなんて、何かあったのかな。
もちろん、私とは何の関係もない人なのだけれど、気になってしまったので見ていると、彼女と目が合ってしまった。私は気まずくなったけれど、慌てて視線をそらしたら不審な人物と思われそうだったので(既にじゅうぶん不審な人物だ、という話もあるが)、ゆっくりと視線をまた手元の本に戻した。その後も私は、気付かれないように(でもきっと気付かれていたような気がする)ときどき彼女のほうをチラ見した。やはり彼女は泣いていた。
電車が、ある駅に停まった。彼女は吊り革から手を離して、その駅で降りるべくドアに近寄る。ドアにもたれて立っていた私のすぐ隣に、彼女が来た。私はドアにもたれつつ吊り革にもつかまっていたのだが、「あ、もう降りるのか」と彼女のほうを何気なく見ると、再び、彼女と目が合った。
そのとき。彼女は、吊り革をつかんでいる私の腕にふいにつかまった。電車が揺れたり急停車したときよろけた人がとっさに何かにつかまるように、ふいに。でも、電車はもう停まっている。彼女は、よろけたわけでもないのに私の腕にいきなりつかまったのだ。つかまったというより、つかんだといったほうが正しいかもしれない。
私は、突然のことにムチャクチャ驚いた。ビックリした。もしかしたら「あんた、なんでさっきから私のことをチラチラ見てたのよ! ひょっとして痴漢?」みたいなことを言われて、駅員に突き出されるのか、と一瞬思った。
しかし、彼女は私の腕をつかむと、私と目を合わせたまま、なぜか少し、ニコッと笑ってみせた。泣き顔の上から無理に表情だけ笑顔を乗せたようでもあったけれど、笑った顔を作って、私に見せた。
彼女は、私に何かを言うわけでもなかったけれど「(腕につかまっちゃって)ごめんなさい」みたいなことを言いたげな笑顔であるように私は感じた。だから私は、「いや、大丈夫ですよ」と言っているつもりの笑顔を、ものすごくぎこちなく作った(あいにく、そんな状況でとっさに意を尽くした笑顔がうまくできるほど器用ではないのだ)。でも、それが伝わったかどうかはわからない。というか、ちゃんと笑顔を作れたかどうかも自信がない。それ以前に、彼女が本当は何を言いたくて、なぜ私の腕を急につかんだのかすら理解できなかった。
私がその女性と目を合わせていたのは、2秒ぐらいの時間だったと思う。やがて彼女は自然に私の腕から手を離すと、何も言わずにドアから降りていった。降りていく人の波にまぎれて、すぐ彼女の姿は見えなくなった。
一体、なにがなんだったのかわからなかったし、いまだによくわからない。なんであの女性がひどい顔で泣いていて、なんで私の腕をつかんで笑ったのか。
わからないんだけど、我々が毎日、オトナの顔をして何気なく生きていく日々の中で、ふと泣きたくなること(それがたとえ電車の中であったとしても)だってたまにはあるよなということ*1。そして、ふと誰かの腕につかまりたくなるような日(それがたとえ見知らぬ人の手であったとしても)だってあるかもしれないな、ということ。それは私にも、共感をもって、実感としてわかる。その日の彼女は泣きたい気分だったし、誰かの手につかまりたい気分だったんだろう、たぶん。
ま、ホントのところ、彼女は「ちょっとおかしい人」だったのかもしれないというような気がするし(酒に酔ってはいなかったと思う)、いくらそういう気分だからといって、同じことを私が女性にやったら今度こそ駅員に突き出されてしまうんだけれども。
とりあえず、爆風スランプの『天使の涙』という曲を思い出した。ほとんどまんまのシチュエーションだったもので。

人ごみの中で あなたを見ました
翼を背中に 生やしていました
ビルの風に 流されないように
小さくたたんで 歩いていきました


終電車で あなたを見ました
扉にもたれて 外を見てました
蛍光灯に 照らし出されていた
きれいな頬に 涙あふれてました


神様 私は今日も約束どおり
死なないで なんとか眠れそうです


天使の涙が 春雷の風に乗って窓を叩く
切ない夜も なんとか眠れそうです


The day's divinity,the day's angel.人気blogランキング

*1:そういえば、子どもの頃「大人は泣かない」と思っていなかったっけ?