「大人」の恋愛

最近、高野秀行の『ワセダ三畳青春記』という本を読んだ。
ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)
一応は小説なのだが、書かれている内容はほとんどが、作者≒主人公(早稲田大学の探検部OB)が実際に体験したことが基になっている。早稲田にある超ボロアパートの野々村荘を舞台に、浮世離れしまくった主人公やその友人、入居者、大家たちが巻き起こす珍事件・珍騒動を描いた、むさ苦しくて、貧乏ったらしくて、とても面白い本だった。
その中で、主人公が11年間も住み慣れた野々村荘を出て行くきっかけとなる出来事が描かれている。33歳にして、8年ぶりに恋人ができたこと(それまでは、主として野々村荘での生活が理由で恋人ができなかった)がそれなのだが、その中にとても興味深いくだりがあった。
主人公は、野々村荘の自分の部屋で、互いに思いを寄せ始めた女性と初めて一夜を共にするのだが、そうなってしまったあと、相手の女性から、10代の子供でもあるまいし、33歳のいい大人がたかだか一度そうなったくらいで付き合う付き合わないって話でもないじゃない? などと言われてしまうのではないか、という懸念を抱く。その一件以来、もう一度会いたいと思っているのだが、会うどころか、電話をするのもままならない。「アハハ、あのときはあのときよ。大人じゃないの、いやねえ……」なんて言われたらどうしよう、と思うと連絡も取れないのだ。
そんな折、当の女性のほうから、会いたいという連絡がある。緊張しつつも喫茶店で会って話をすると、実は彼女のほうも、主人公と同じ不安を抱えていた、ということがわかる。

「私ね、電話するのがすごく怖かったの。もし、高野くんに『おれたちもう大人なんだし、そういうのナシにしようよ』とか言われたらどうしようかと思って」
なんとその人も同じことを考えていた。でも、その人の方が度胸が座っていた。
「でも、もし、そんなこと言われたら、怒鳴りかえしてやろうと思ったのよ。『大人だから子どもとちがって情が深いんだよ!』ってね」

最近、というか自分が(年齢的には)「大人」になってしまってからこっち、思うことがある。
よく、「大人の恋愛」なんて言うが、あれは単に「『大人がする』恋愛」という意味なんであって、それ以上のものでも以下のものでもないのだ、と。「大人『の』恋愛≠大人『な』恋愛」なんであって、恋愛自体には、本質的には「大人」も「子ども」もないのだ、と。「場面」とか「小道具」などが多少「大人」と「子ども」では違うかもしれないけれど、好きになっちまったもんは仕方ねぇやという点や、好きになっちまった人のことを考え、思考や行動がその人中心になる、という点では、30歳の恋愛も15歳のそれも変わらない。少なくとも、私の場合はそうであるような気がする。誰かを好きになってしまったときの自分の必死さとか、みっともなさとか、不器用さとか、けなげさみたいなものは、たぶん30歳の年齢に見合った、「大人な」ものとは思えない。しかし、それでもそれは、私にとっては間違いなく「大人の」恋愛である。
「オトナなんだから」みたいな言葉で割り切ったり、スマートでおしゃれに振る舞うようなことは私にはできそうにない。結局、私には「『(子どもっぽい)大人』の恋愛」しかできないのだろう。そして、世間にはうまいこと割り切った、「『(大人っぽい)大人』の恋愛」ができる人もいる、ということなのだろう。どっちがいいとか悪いとかではなくて。
先に引用したくだりを読んだとき、なんだか清々しい共感を覚えた。私はまだまだ「子ども」っぽい男のようである。あらまあ。




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