カレーを食べていた日々

先日、大学の後輩がたまたま母校を訪れたとき、すっかり様変わりしてしまったキャンパスの写真をFacebookにULした。それは、私やその後輩が通っていたときとは似ても似つかない、小ぎれいで新しく、最新のオフィスビルのように立派なものだった。そして、昨今の大学キャンパスには珍しくないが、コンビニエンスストアも入っていた。そういえば先日、早稲田大学を訪れる用事があったが、文学部のキャンパスがやはりそのような様変わりをしていた。
意味がなく、建設的でもない、ただのおっさんの感傷だということは百も承知だけれど、廃校も移転もしていないのに、もう私が通っていたあの「キャンパス」はどこにもないんだ。そう思った。
私の大学が(そして早稲田が)キャンパスを徹底的に小ぎれいにし、そして廃墟のようだった学生会館を徹底的に取り壊したのには、学生運動の一掃という目的もあった。だから、美しくモダンな建物と引き換えに、革マル中核派は、その居場所を大学の中から失っていった。誤解しないでもらいたいが、私はいずれの団体のシンパでもない。自らの主義主張を暴力的な方法で実現させようとする集団は容認できないし、そもそも彼らの主義主張に賛成ではない。ではないが、私の学生時代の「背景」、いや「風景」には、まぎれもなく彼らがいた。
私の大学の近くには(当時もいまも)学生が気軽に食事をできるような場所が少ない。しかし、学食は席の数が少なくてとても混むうえに、おいしくない(これはたぶん、当時だけ)。だから私は、学生の頃、毎日毎日飽きもせずに、テイクアウトのカレーを食べていた。
あの頃、大学の正門を通って廃墟のような学生会館の建物に入っていくと、1階には売店があった。そこにはかなり老け込んだ、40代ぐらいに見える店員がいて、テイクアウトのカレーを売っていた。もう値段を忘れてしまったが、ハンバーグカレーやカツカレーが500円ぐらいではなかっただろうか。もちろん、格別おいしいわけではない。ただ、混雑した学食で並んで慌ただしく食事をするのが嫌だった私と数人の友達は、いつもそこでカレーを買い、ベンチや外階段、猫の額ほどの芝生に腰掛けて食べていたものだった。老け込んだ顔の店員は、「毎度あり」と、本人にしては精一杯のつもりの笑顔で私に言い、私はぎこちなく笑顔を返していた。
てっきり私はその店員は、大学と無関係の業者のおじさんなのだと思っていた。しかしある日、そのおじさんがキャンパスでトランジスタメガホンを使って、ガイドライン関連法案がどうの、橋本政権打倒がこうの、とヘルメットを被って叫んでいるのを見て、「中核派だったんだ。というか学生だったんだ!」とびっくりしたものだった。
いつか、こんな噂を聞いた。その売店中核派が資金獲得のために経営している店で、その店員、しかし実態は活動家のおじさんたちは、大学に「活動のためだけに」在籍しているらしいのだと。そして、何度留年しようが、資金は上部組織からカンパがあるので、彼らは「いつまでも」大学にい続けられるのだとも。おそらく、その噂の何割かは本当だったのかもしれない。それでも私は、カレーを食べ続けた。別にそのカレーが好きだったからではない。他に食べるものがなかったからだ。
大学3年になり、取るべき授業が少なくなってきた私は、わざわざ大学で食事をとらなくなり、4年までには卒業所要単位を全て取れたので、それ以来カレーを食べることはなくなってしまった。やがて私は大学を卒業して、いつしかそのカレー屋はなくなり、それからしばらくしてカレー屋のおじさんたちは、大学を除籍処分となった。高札のように正門に掲げられた「出入禁止通知」に名指しをされて。大学当局の徹底的な排除が始まったのだ。カレー屋が入っていた薄汚いアジト、いや、学生会館は取り壊され、それに取って替わるように新しくきれいな建物が建った。そのようにして、私の「キャンパス」は、そしておじさんたちの「キャンパス」も姿を消した。
もうあのカレーは、たぶん、どこに行っても食べることはできない。大学から物騒な連中を追い出せたことの代償が、まずいカレー屋1軒というのは喜ぶべきことだろう。別に大して食べたくもないくせに、ただのノスタルジアであのカレー屋を懐かしむ意味も必要も、どこにもない。
しかしときどき、私はあの活動家たちに微々たる「カンパ」をしていた日々を思い出すのだ。もう帰ってこないあの日々を。



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