漱石とイルマさん(3)

それからしばらく、私とイルマさんは4本ずつ煙草を灰にして、ピロティ下のベンチで『夢十夜』について語り合った。もっとも、ほとんどはくだらない脱線だったが。私たちは大声で笑いながら、そしてイルマさんは時おりメモを取りながら、ずっと話していた。
「ありがとう、一斗くんと話してたら、なんだか書けそうな気がしてきた」
「どういたしまして。もし書けたらなにか奢って」
「考えとく」
そういうとイルマさんは立ち上がって、試験前の学生でごった返す図書館に向かっていった。
それから半年ほど経ち、後期試験のシーズンがやってきた。私は中国語と再履修の英語の単位を奇跡的に取り、日本文芸学概論の単位を順当に落としたが、とりあえず留年の心配はしなくていいことになった。
イルマさんとは、そもそも学部が違うし学年も違うため、ほとんど顔を合わせることはなかった。ただ、いっしょに受けた生命科学の試験のときに「…胃が痛い」と威勢の悪い顔でつぶやいていたのを覚えている。
成績発表の日、イルマさんは大声を上げながら僕のところに飛んできた。
「奇跡! キセキだよ一斗くん! パンキョー、全部取れた!」
彼女は胸をそらし、視力検査票みたいにCばかり目立つ成績表を私に見せた。そんな中、文学にはAがついていた。
「一斗くんのおかげだね」。彼女は晴れ晴れとした、そして少し照れくさそうな顔で笑った。私もつられて笑った。
あの夏休み前のように、ピロティ下のベンチで成績表を見せ合いながら他愛もない話をして、私たちは別れた。帰り際、なんだかやけにイルマさんは、私に手を振っていた。ような気がした。
それから1週間ほど経った。私はアルバイトの面接を受けるため、湘南台に向かった。電車の中で、ふとカバンの中をまさぐると、1枚のメモが出てきた。イルマさんの字だった。
「一斗くんのおかげでAが取れたよ、ありがと! お礼と、あとお話があります。明後日の金曜日、15時に文学部の掲示板の前で待ってます。来るよね?」
私はしばらく、手の中でそのメモを広げたまま、ずっと見つめていた。



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